当たり前の何か

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真面目な話初心者による『即位礼正殿の儀』のおはなし

(※本ブログは、あくまで個人の備忘録である為、私ymc0912は一切の責任を負いません。)

 

こんにちは、真面目なトピックを扱うことに慣れていないymc0912です。

 

現在ぼくはオーストラリアに留学中ですが、そんなぼくの耳にまで届いたあるトピックについて今回は触れて行きたいと思います。喋り口調で脳内再生してね!

 

即位礼正殿の儀

ってやつです。天皇が代替わりする際に時期天皇の宣言とそれのお披露目のために開かれるやつ。

で、なんか天皇と皇后は凄い厳かなお召し物を携え、今世の国の象徴たらんという宣言をするみたいです。

天皇陛下のお召し物は御束帯、皇后陛下のお召し物は御五衣・御唐衣・御裳というらしいです)

もちろん参列に推薦される方々は各所のお偉方。まあ、あたりまえですね。

 

まあ、そんな些事は置いておいて、実はこの問題、滅茶苦茶面倒な問題、孕んじゃってるんですね。

 

というのも、こんな国家に関わるようなイベントは当然国費を用いて運営したり、地方自治体の長を招いたりしているはずなのですが、実はこれ、客観的に見ればとてもまずいことをしてしまっているんです。

 

そう、憲法違反です。あまり日常生活の中で憲法を意識することはないと思いますが、中学校の授業などで学んだ方も少なくはないはずです。憲法20条の政教分離の原則」ってやつ、ありましたよね。

どうも今回の儀式に対する公金の使い方は、これに抵触してしまうみたいです。実際に、朝日新聞によると国内のキリスト教関連団体や共産党の方々が指摘をしたそうです。ですが、本日2019年10月22日、儀式は完遂されました。あれ?違憲行為じゃないの?大丈夫なの?と思った方はこのままよみすすめてください。そう出ない方は多分ぼくより知識を持っているので閉じてください。

 

 

この先、法学用語に対する誤った認識、解釈が含まれている可能性があります。御注意と、発見された場合には報告をお願いします。

 

まず、今回のキーワードを先に出しておきますが目的効果基準』と『審判権の限界』というものです。意識しながら読み進めていただければ、理解に役立つかと思います。

 

ではきをとりなおして、今回の問題について話していきます。

第一に、憲法第20条に含まれる政教分離の原則」とは、簡単に言ってしまえば『政治と宗教の分離、又、互いに干渉の禁止』を意味しています。言い換えれば、日本国は信教の自由を保障されている国なため、国や地方自治体などが特定の宗教に対して肩入れをし、特権を与えたり宗教活動を行うことが禁じられているということです。

 

次に、今回問題だとされている点についてです。上記のように、国が特定の宗教に対して肩入れをしたり援助をすることは 禁じられているのですが、今回はどうも地方自治体の長が参列した」という行為が焦点とされているようです。記述のように、政教分離の項目の中で明言されている事項ですので、当然といえば当然ですね。

 

ですが

儀式は遂行されました。なぜか? そこには先ほど挙げたキーワードの一つである「目的効果基準」という考え方が密接に関係しています。

 

これは裁判の際に用いられる考え方なのですが、その前にまずは通常の裁判について説明します。通常、裁判官は通常「裁判法」や「憲法」と言ったものを参照して判決を行います。そして、それらには基準を適切に用いることのできる範囲が存在しています。その範囲というものが「法律上の争訟」と呼ばれるものであり、これは主に事実に法律を適用することにより解決できる問題を指します。つまり、通常の裁判内容の場合(特に宗教などが絡まない場合)、裁判官は上記の二つの方に基づき判決を下せるというわけです。

しかし、宗教が絡むとこの限りではありません!!

というのも、裁判官は審判権という物を保持しているのですが、その効果範囲は「法律上の争訟」に限られています。そして、宗教はその限りではありません。

上記のように、裁判官が彼らの審判権の及ばない問題に直面した際に、彼らは「審判権の限界」を迎えます。これは、先ほど述べたとおり審判権には宗教が基本的に含まれていないため、どの程度の審判権を用いて良いのかという基準が曖昧になってしまう状態を指す物だと理解してください。

こうなってしまうと日本最高峰の知識層である法曹も手を焼く事態なようで、非常に判断が難しい問題なため、これ以上の言及は避けますが、何が言いたかったかというと、

 

宗教が絡む判決の際には、裁判官には「審判権の限界」がおとずれ、新たな尺度を用いる必要性が出てきます。そして、その新たな尺度こそが目的効果基準という物です。この考え方は、主に宗教が関与していて審判権の限界を迎えた裁判で用いられる物ですが、「国家と宗教のつながりがどの場合にどの程度まで認められるかを考慮する際に用いる基準」と言い換えることができ、又この基準とは「行為の目的が宗教的意義を持ち、その効果が宗教に対する援助・助長・促進又は圧迫、干渉などになるか否か」という物です。ざっくり噛み砕くとすれば、そもそもの基準が明確ではないためにとても加減が難しい、裁量による判決方法に用いられる物と言ったあたりなのでしょう。

 

 

 

さて、長くなってしまいましたがまとめとしては、「違憲とも取れる行為が散見されたものの、宗教が絡む問題ということもあり裁判官は審判権の限界を迎えてしまった。その為、目的効果基準を用いて判決をしたところ、それらはあくまで儀礼的な意味合いを重視したための行為であるという意味合いが強いために違憲とはならずに済んだ」というところなのでしょう。ほうりつ、むずかしい!!でもたのしいね

 

 

 

ちなみに、過去に審判権の限界を迎えたとされている判例に関しては、裁判官全体のうち5名が違憲と唱えた事例である「津地鎮祭訴訟二 津地鎮祭事件の最高裁判決:文部科学省」が分かりやすいのではないかと思います。